あの頃-単行本未収録エッセイ集:武田百合子著のレビューです。
過ぎ去ってしまった「あの頃」は、文章を通して再び私たちの中で息を吹き返す。
発売前から今か今かと心待ちにしていた一冊。百合子さんが亡くなってもう24年も経つそうです。各出版社から未収録のエッセイを出版したいという依頼が娘の花さんのところに来ていたそうですが、その都度お断りしていたとのこと。
そんな花さんが時を経て、自分の頭がしっかりしているうちに1冊にまとめ、母の文章を読んでみようという気になり、こうして出版にたどり着いたそうだ。出版は「富士日記」以来縁が深い中央公論社。
1977年から1992年までのエッセイ。私の風土記、テレビ日記、映画館など一定のテーマをもとに集めたエッセイも、ふんだんに詰まっています。
夫・泰淳さんとの仲睦ましい日々の話はもちろん、ちらほら登場する大物作家さんたちを綴った貴重な話も。特に百合子さんと吉行淳之介氏が繋がっていたとは思わなかったので、思わずワナワナしてしまった。
なんでも百合子さんは娘時代に吉行氏と飲んでいたらしいが、大人びた美男の吉行氏に無視され、くやしくて、机上にあった缶詰の空き缶を吉行氏めがけて投げまくったそうだ。そんなことをされても吉行さんはその空き缶を避けながら、落ち着いて飲んでいたそうだ。
で、話が終わるのかと思いきや・・・まだあった。
ある日の飲んだ帰り道、吉行氏と一緒に歩いていた百合子さん。「やい、よしゆき」といきなり力まかせに吉行さんの顔をひっぱたいたというじゃないですか!
なんでしょうね、構って欲しい気持ちが異常な形として表れたのでしょうか。それとも酒癖が悪いのか?余裕の淳之介、必死な百合子って構図が可笑しくって。
吉行さん、こんなことされても後日普通に「これから家へ来ない?」なんて誘っているから、やはり「人たらし」なんだよなぁ。
百合子さんまでも結局と言おうか、淳之介に結構なお熱をあげていた一人だったのですね~
・・・というエピソードを面白く拝読しつつ、百合子さんのエッセイから
様々な街並みや、当時の人々の描写に釘づけになった。
どうしてこんなに読者の私までもが鮮明に情景が浮かぶのかと思っていたのですが、百合子さんの文章は何気なく佇んでいる人ひとりを書くにも、かなり細かく細かく描写しているからなんだろうな。
文字を追うごとに浮かび上がってくる脳内映像はそんな描写の賜物。
そこには余分なものは何もなく、あったもの、いた人の姿がそのまま映し出されてくる。
場所ならその場所へ行った気分に。
人ならその人に会ったような気分に。
エッセイを一編一遍読むたびに、どこかから帰って来たような気持ちになる。
最後にわたしの心の中にくっきり刻まれたシーンは武田家のお花見の話だ。シンプルな家族の光景が、まるで古いアルバムを見ているような・・・・鼻の奥がツンとくるひとコマ。普通の話だけどなによりも愛おしい日々の回想だ。
過ぎ去ってしまった「あの頃」は、文章を通して再び私たちの中で息を吹き返す。
読み終わってしまうのが無性に淋しい。
ですが、再び百合子さんの本に出逢えて嬉しかったです。
本の出版を決断された武田花さんと出版社に心から感謝を申し上げます。