センセイの鞄 :川上弘美著のレビューです。
センセイとツキコの恋はくっ付いたり離れたり。ゆっくり静かに恋は歩いてくる。
「ツキコさん」
「ツキコさん」
どこからともなくセンセイがツキコさんの名前を呼ぶ声が聞こえて来そうな静かな夜。ほんの少しにじんで見える文字を最後に、ふぅーっと大きなため息ひとつ。切なさを胸に本を閉じた。
30代後半の独身女性と、60代の元教師の男性との恋の話は、静かに進行してゆく。
センセイはツキコさんの恩師。
二人は居酒屋で再会をし、その後一緒に過ごすことが多くなる。
センセイのお宅に行くこともあれば、お祭りのような市へ出かけたり、キノコ狩へ行ってみたりと、ゆるく繋がりながらもページを追うごとにふたりの思い出が積み重なってゆく。
ふたりはいつも、ふと会って、ふと一緒に歩く。
ふと訪ねて、ふと一緒に酒を飲む。
ひとつきも会わない、話さないこともある。
恋人関係ではないのだから、付かず離れずの関係だ。
でも、ツキコはどこに居ても、誰と過ごそうとも、センセイは遠くないと感じている。
この夜のどこかに、必ずセンセイが居ると。
ふたりの関係は、大人の臆病さもある。
傷を深くしないよう相手に多くを期待することもない。
けれど幾つになっても、感情を剥き出したくなるほどの想いに駆られたり、気持ちの行き場に困り果て、相手にぶつけてみたくもなる。どうしても意地を張ってしまうことだってある。
後半になるほど、ツキコのセンセイに向ける気持ちが手に取るように感じられ、恋する感情に揺さぶられる。
「すっかり子供じみた人間になってしまった。
時間と仲良くできない質なのかもしれない」と、同級生の成長ぶりと比べ、どこか大人になり切れていないと感じるツキコ。
「ワタクシは、その、昔からぐずで」と、ボソボソ告白するセンセイ。
生真面目で人間臭く、不器用さをちらちらと見せてくれるふたりに、なんだかとてもホッとする。
恋をする年齢にも四季がある。カッと燃え上がる若い時の恋が夏ならば、この恋は枯れ葉落ちる秋の終わりに訪れた恋。
秋の恋はほんの少し翳りがあって、孤独の気配が付き纏う。
劇的なドラマも期待しない。
居酒屋でお酒を呑みながら、各々が好きなものをつまんでいる。
こんなささやかなふたりの場面が、今となっては愛おしくてならない。